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2011年 06月 05日
久々のブログアップ。 今日は帝劇でミュージカル「レ・ミゼラブル」を見てきました。(風邪ひきで咳を堪えるのが大変だったけど。) このミュージカル、自分がミュージカルが好きになったきっかけのプログラムで、初めて見たのは中学の時だっただろうか。 こんな世界があるんだって鳥肌がたったことを今でも覚えている。 2回目は、ロンドンに遊びに行った時に、一人で開演ぎりぎりで滑り込んで立ち見で見た時。 そして今回は3回目でした。 今回は当時のキャスト、鹿賀丈史や島田歌穂なんかが出るっていう話だったんだけど、突然のキャスト変更。それは残念。 不思議なもので、当時の記憶や感覚ってのが残っていて、正直当時とは違う感覚でした。 もしかしたら今の役者さんの方が音感はいいのかもしれないけれど心臓をつかまれるようなことはありませんでした。 確かに、この20年以上の間に海外でオペラ見たり、他にもいろんな芝居も見たりして、こちらの視点も広がったのかもしれない。 でも。。。なんなんでしょうねー。こういう感覚って。 やっぱり小さい時に残す感覚ってとても大事なんですね。 ただ、エポニーヌ役をやっていた「笹本玲奈」っていう女優さんは歌も表現もすばらしかったです。 2011年 04月 05日
先輩に教わった佐々木俊尚氏のブログの中で、ニューヨークタイムズ誌のニコラス・クリストフが書いた記事(Sympathy for Japan, and Admiration)が紹介されています。 その中の1フレーズ。 ====== That sense of common purpose is part of the country’s social fabric, and it is especially visible after a natural disaster or crisis. ======== 日本人の良さかもしれません。阿吽の呼吸。 同じ民族で隣の人が困っていたら、一緒に復興しようとするCommonSense。 しかし。 最近の報道では、花見の自粛まで言われています。そこに桜があれば、愛でてもいいではありませんか。 そこに右に倣う必要はどこまであるのでしょうか。確かに東日本大震災で被害にあった人たちの現状は、私たちには計り知れない何かがそこにはあるんだと思います。 でも、そこに花の咲く喜びや、花に寄せる哀しみを感じても良いではありませんか。喜怒哀楽を捨てなきゃ復興はないのか? 恵まれた生活を送れている自分たちは何か、後ろめたさを感じながら、生活を送らなければいけないのか。 でも、そこに、本当にThe sense of common purposeがあるのなら。 バカ騒ぎ、乱痴気は起こさないんだろうから。 どこか根っこでつながっていることと、形が同じであることは違うんだから。 2011年 03月 18日
東日本大震災で計画停電と称して、いろいろな節電がなされている。 確かに自宅の冷凍庫のものがダメになってしまうのは無駄なことだしモッタイナイけれど、そもそもこれは“節電”なんだろうか。 みんな暖かい格好をして乗ってくる電車に過剰なエアコン。日の光が差し込む車中にこうこうと付く蛍光灯。 そう考えると、原始時代に戻ろうとは言わなくても、せめて過剰な温室にすることは避けられる、普通の状態でいられるのかもしれない。 確かに便利な世の中は居心地がいいし、そんな中で安穏としてきたんだから、いきなりこんなことを言うのもおかしな話だけれど、最適配分するための技術力があがるといいかもね。 でも、冷える… # by masa_pf | 2011-03-18 07:27
2011年 03月 13日
今回の地震は、本当に東北の人たちにとって、大変な惨事になったことは間違いない。 郷里がある人たちにとっても、胸痛む、心痛むそんな状況だろう。 我々は、テレビ、新聞、ラジオのニュースから伺い知ることの出来る状況から、被害が最小限に収まる事を祈ることしか出来ない。 そして身の回りで大変な状況にいる人を支援する小さな力を発揮することしか出来ない。もっと言えば、支援する人をバックアップすることしか出来ない。 しかし、しかしである。 現場に救助に行くメンバーはこのニュースをどれだけ見ているんだろう。 目の前の惨事におちいっているメンバーを救うことに必死で、ニュースを見ている余裕や時間はないことが容易に想像出来るのである。 その中で、あるべき論、予算の組み方、責任の所在論。そんなことをしたり顔で議論している政治家や専門家。 どれだけの役割が担えているんだろうか、ということをふと思う。 そんなことは、とりあえずの目途が立ってから反省すれば良い。 そんなことを議論している暇があったら、現場や担当者と前に進む議論をしてほしい、と思うのは少なくとも私だけではあるまい。 確かに役所の人とどこまで話していいかを確認しなければいけない現場の責任者もかわいそうだなと思う。 そして、家族を郷里に残している人にとって、電話や携帯が通じない今、現場の状況を認識出来る事は少なくとも貴重な情報源、ではあるだろう。 でも、そこに駆けつけられないもどかしさ、あるんだろう。 「もう一度、立て直すしかないじゃないか!」 旅館から救われたおじいちゃんの一言が本当の力を与えるんだろう。 2011年 02月 28日
私の職場が医療機関、ということもあって、世の中では自称弱者という立場にいる人と接する事も少なくはない。そのひとつに患者団体、というコミュニティがある。 このコミュニティに接した時に、立場、あり方が本当に難しい、と感じるのである。 確かに、病気という視点で考えれば、治療が必要な生活の中で不自由を感じることは、大変だと思うし、その病気のもとを治療する手助けを少しでも出来れば、と思うのは事実である。 しかし、一方でその不自由である、という立場を利用して、自分たちの存在価値を無理に高めようとしたり、既得権益を守り抜こう、あるいは勝ち取ろうとする輩がいるその事実は必ずしも彼らにとってプラスに働いていないことも垣間見られるのである。 割合にすれば、ごく一部の人間がそのような活動を起こすことによって、ただ純粋に自分が今享受しているものの確かさを信じて、淡々と地道に生きている人間までも、周囲から同じ輩に見られてしまうその行動が果たして自分たちのメリットにつながっていない、と考えることはないのだろうか、と思うことがたびたびあるのである。 自分たちが弱者である、というその認識は、病気という医療の分野のみならず、自分の認識しだいなのではないか、と思うことがある。 自分たちがその能力を活かすための環境を勝ち取る、ということと、自分たちの弱さや不自由を逆手にとって、相手依存でいる、ということのバランス感覚は本当に難しいな、と思う今日この頃である。 何より一生懸命やっている姿を見て、応援しよう!と思うことがあっても、既得権益を守ろうとせんがために、周囲を攻撃するような輩のサイドにつくものは、少なくとも偏った利益構造を産むコミュニティだけなのだから。 |
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